映画「バービー」の原爆に関するファンアートに配給元のワーナー公式Xが配慮にかける対応をしたことが少し前にニュースで取り上げられました。そこでふと思い出したのがトロッコ問題です。
トロッコ問題とは
線路を走っていたトロッコの制御が不能になった。このままでは前方で作業中だった5人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう。
そしてAが以下の状況に置かれているものとする。
この時たまたまAは線路の分岐器のすぐ側にいた。Aがトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもBが1人で作業しており、5人の代わりにBがトロッコに轢かれて確実に死ぬ。Aはトロッコを別路線に引き込むべきか?
Aおよびトロッコの運転手の法的な責任の所在を棚に上げており、道徳的な見解だけが問題にされている。あなたは道徳的に見て「許される」あるいは「許されない」で答えよ、という課題。
つまり、単純化すれば「5人を助けるために他の1人を殺してもよいか」という問題であり、功利主義に基づくなら1人を犠牲にして5人を助けるべきだ。しかし、義務論に従えば誰かを他の目的のためだけに利用すべきではなく、何もするべきではない。
ウィキペディア(Wikipedia)トロッコ問題より抜粋
思考訓練の題材であり、道徳的な判断での正解は今のところないとされています。原爆のみならず戦争における殺傷問題全般にも関係する問題です。
実生活では
実生活の中では、様々なレベルで同種のジレンマに遭遇します。
予防接種禍の問題があります。コロナをはじめとした集団的予防接種では、極少数ではありますが、副作用で亡くなる方が出てきてしまうことがあります。だからといって、予防接種をおこなわないと、今度はより多くの感染症による死者が見込まれるジレンマとなります。
AIによる自動運転のブログラミングにおいても同種の問題が発生します。自動運転車が制御不能になり対向車の2台のバイクのいずれかに衝突が不可避となったとします。この場合に、1台の運転手はノーヘル、もう1台のバイクの運転手はヘルメット着用していたとします。この時に、身体生命へのダメージはヘルメット着用者の方が相対的に低いと判断して、ヘルメット着用者への衝突を選択することはありえるでしょうか。
では、生命や身体が関わらない物的経済価値の問題なればどうでしょうか。同じく、自動運転車が制御不能になり対向車の2台の車のいずれかに衝突が不可避となったとします。この場合1台の車は、高額な高級車、もう1台はより低額な自動車だったとします。この時に、経済的価値のみを考慮して、低額な自動車への衝突を選択することは是認されるでしょうか。
マスコミ報道の視点
現実にトロッコ問題が発生したとします。以下の例の場合、マスコミ報道(や野党の言動)は客観的視点や肯定的な側面はまず横において報道せず、否定的な側面のみが過度に強調される傾向が強いように感じます。
知らない間に特定の見解に誘導されないように、客観的視点を常に持ち合わせ、事実と評価は明確に区分して、マスコミ報道と上手に付き合う必要があります。
(報道例)
1.客観的視点
”単純化すれば「5人を助けるために他の1人を殺してもよいか」という問題であり、功利主義に基づくなら1人を犠牲にして5人を助けるべきだ。しかし、義務論に従えば誰かを他の目的のためだけに利用すべきではなく、何もするべきではない。”
2.Aがトロッコを別路線に引き込みB1人が死亡、5人は生存した場合
(否定的報道例)Aは、5人を助けるためとはいえ、Bがいることを承知の上でトロッコの進路を切り替えBを見殺しにした。5人を救ったとはいえ、Aの行為は許されるものではないのではないか。
(肯定的報道例)Aは、いずれかを選択せざるを得ない究極の状況下5人の命を救った。究極の苦渋の決断をおこなったAは称賛に値する。Bのご冥福をお祈りする。
3.Aが何もせず、5人死亡、B1人は生存した場合
(否定的報道例)Aは、5人を助ける選択肢があったにもかかわらず、何しなかった結果5人の死者が出た。Aは5人の死亡をどう受け止めるのだろうか。
(肯定的報道例)Aには、Bと5人の生命を選択することはできない。生命と生命との衡量は認められない。人間の生命という最高の価値は絶対的なものであり質的にも量的にも比較の対象とはならないから。悲運な状況下で亡くなった5人のご冥福をお祈りする。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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