第二次世界大戦下の生活といえば、徴兵制に統制経済・配給、検閲、言論統制など現代社会とは全く異なる社会運営がなされていたとイメージしがちですが、普通に株式投資がおこなわれていました。国策会社ですら株式や社債で一般人からも資金調達していました。
南満州鉄道株式会社
冒頭の画像は、当時の南満州鉄道の株券です。南満州鉄道は、日露戦争で利権を得た鉄道運営のため、1906年に設立され、第二次世界大戦終了まで存続していました。真ん中下に描かれているのは特急あじあ号で同社が運営していた当時の最新鋭の特急列車です。最高時速130kmに冷房付きです。裏側に「凸版印刷株式会社印刷」と書かれています。当時にはもう存在して、現在に至っています。
これは、1930年の同社社報です。回覧され、デート印が押されています。現代の会社と同じですね。当時から会社員生活は変わっていないようです。この翌年1931年柳条湖事件がおき、翌々年1932年満洲国が設立され、その約10年後の1941年真珠湾攻撃による日米開戦に至ります。
増資の際の申込書
新株申込時期は終戦の2ヶ月前
昭和20年(1945年)6月1日となっています。同月末には申し込まれた下関で大規模な空襲がありました。3ヶ月前の3月には沖縄戦や東京大空襲がありました。敗戦は2ヶ月後の8月です。3ヶ月後の9月には当社は消滅することとなります。
左に「株券出来の上は本証と引き換えに南満州鉄道株式会社東京支社より御渡可申候」とありますが、手元にあるということは、引き換えられなかったということです。歴史を見てもそれどころではないです。国が占領下に置かれ、会社は消滅しています。
なぜこのタイミングで株式投資か疑問に思い調べたところ、同社は、1945年1月に臨時株主総会で株主割当による増資を決定し、払込時期が6月というものでした。このタイミングでの増資実行は驚きです。経営者はどのような見通しを立てていたのでしょうか。増資は4株ごと1株12円50銭で割当て新規発行する内容であったため、本申込金は937円50銭で、申込み株数75株となっています。
申込理由として考えられるのは、増資による1株価値の希釈化回避またはインフレ対策でしょうか。地方都市で当時どこまで情報が得られていたのかわからず、投資判断に至った理由は知る余地がありません。ただ、投資しなくても、戦後のハイパーインフレで貨幣価値は下がり、投資を行い仮に投資先が消滅しなくとも1946年には預金封鎖と財産課税が実行されています。個人レベルで資産保全は不可能であったと予想されます。敗戦後は、3年9ヶ月間証券市場は閉鎖されていました。
株式会社帝国銀行
申込場所は、株式会社帝国銀行下関支店となっています。帝国銀行は1943年に三井銀行と第一銀行が合併してできた都市銀行で、現在の三井住友銀行の前身です。
収入印紙
領収書なので、収入印紙5銭が貼られています。今だと5万円以上100万円以下で200円のため、当時から4000倍になっています(1円=100銭)。ちなみに、本領収書も凸版印刷株式会社印刷となっています。
最後に
今後このような有事で意思決定を求められないよう国家の舵取りには注意が必要です。戦前も戦中も同じように経済活動がおこなわれ、現代に続いています。敗戦間際まで証券市場で取引が続けられ、国による株価下支え政策が取られていました。将来再び起こることはないと誰も断言できません。
参考文献
外部リンク:日本証券グループ140周年-証券市場の歴史
外部リンク:日本証券経済研究所 証券経済研究(第112号(2020年12月)戦時末期の株式投資成果 平山賢一
外部リンク:京都大学 人文科学研究所 人文學報 第76号 満鉄の資金調達と資金投入 ―「満州国」期を中心に― 安冨歩
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